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メッセージ2018年10月20日

嵐の中の信仰 ルカ822-25

 

皆さんおはようございます。

最初に聖書をお読みいたしましょう。聖書朗読の箇所です。

ルカ8:22-25

8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。

8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。

8:24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 

今日私どもに与えられたみ言葉は皆さんもよくご存知の場面です。

ある時、この場面で子供からこんな質問を受けたことがあります。

「イエス様はこんなすごい嵐なのに、寝てるね。これ、ほんとの話?」もちろん私はその時、「そうだよ、本当の話だよ」と答えました。

質問の意味が、嵐の中で揺れ動く船の中でイエス様が本当に眠ることができたか、を聞いてきたのか、そんな大変な時にイエス様はどうして眠っていたのか、どちらの疑問かは分かりません。でも、どちらにしてもこの質問、イエス様寝てるよ!は非常に深い、また厳しい質問なのです。

 

私たちは思うのです。こんなすごい嵐の時に、弟子たちがこんなに苦しんでいる時に、イエスさまはどうして眠っておられたのか。それは決して、この嵐の中で眠っていられるイエス様、すごいな、ではないのです。私たちの経験の中から出てくる思いなのです。

「私がこんな苦しい今も、イエス様は眠っておられるのだろうか。」

あのフットプリントの詩と同じです。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

 

でも聖書は、嵐の中で眠っておられた主イエスのお姿を告げるのです。

子供たちの率直な質問、「ねえねえ先生、この人すごくない? こんな時なのに寝てるよ」。

確かに、すごい。すごいけれども、また複雑な思いを呼び起こす主のお姿なのです。

 

弟子たちの疑問には背景があります。この物語は、イエス様の「湖の向こう岸に渡ろう」という言葉で始まっているからです。

いいですか。この舟に弟子たちを乗せ、結果的に嵐の中に連れ込んだのは、イエス様なのです。弟子たちが自分で選んだ道ではなかったのです。なのに、嵐がやって来て、舟は水をかぶり、沈みそうなのです。けれども、イエス様は眠っておられる。

ほとんど正気を失うほどの恐れの中で、弟子たちは問うたのです。なぜわたしたちを、このような危険な場所に連れて来られたのですか。あなたが、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃるから、わたしたちもついて来たのです。あなたについて行けば間違いないと信じていたのに。それなのに、なぜ「先生、わたしたちはおぼれそうです。滅びてしまいます」と叫ばなくてはいけないのですか。なぜそこで、眠っておられるのですか。

こう突っ込みたくなるこの弟子たちの叫びを、皆さんも、よくお分かりになると思います。

 

私たちはいろんな〈嵐〉を経験します。さまざまな労苦。信仰の試練。愛する者との別れ。恐れ。不安。健康や経済的な苦しみ、人間関係の中での苦しみ、運命としか言えないような苦しみ。皆さんも感じると思います。

そんな時、あなたも叫びたくなることはありませんか。

イエス様が「向こう岸に渡ろう」そうおっしゃったのに、そしてそれについて言っていったことから嵐に会ったのです。イエス様が一緒なのに嵐が起こっているのです。なのに、なぜあなたは嵐の中、眠っておられるのですか。

最も大きな問題は、イエス様が眠っておられるということなのです。

 

ある方はこう言います。イエス様はすべてを神に委ね切っている姿を、弟子たちに見せてくださったのだと。そして、どんな嵐も私たちを滅ぼす力を持たない、そう言い切ってくださっている。このようなお方が私どもの主として、私どもと共にいてくださる。だから素晴らしいのだと。

そういう意味では素晴らしい、ありがたいことです。

でもそれで納得できますか。

 

弟子たちはその後、イエス様に奇跡を起こしていただいて、嵐がたちまち静まるという得難い体験をしました。だから、弟子たちはまたついていけたのです。けれども私どもの周りではそんなに奇跡は起こりません。

少なくとも私がここで、困難の中にある人に対して、弟子の経験した奇跡を約束するような福音を語ることはできません。眠っているけれども、本当に大変な時に起きて下さり、イエス様は奇跡で助けて下さる、とは言えないのです。

なぜか。教会が2千年間、福音として語り続けてきたことは、奇跡を信じる信仰ではないからです。これははっきりしています。

「信仰を持ったら、いろんな苦しみから解放されますよ。悩みから解放されますよ」。

そう言えたら、どんなに伝道は楽かと思います。しかしそうはいかない。

むしろ、イエス様に従って行っても、やはり嵐は来るのです。イエス様に従うということは、この弟子たちのように、新しい嵐の中に連れ込まれるということを意味するのです。これは、多くの教会と教会員が体験していることです。

そして、その嵐の中で、イエス様に従う私たちは、なお安らかに眠っておられるイエス様の姿を見ることになるかもしれないのです。

それはいったい、何を意味しているのでしょうか。

 

この聖書の記事にはこの後、嵐の中でイエス様が起き上がり、「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」という、圧倒的な神のみわざが語られます。

だから、苦しい時にも神さまを呼べばいい。神さまはいつも一緒にいてくださり、わたしたちを助けてくださると、そう伝えようとします。

けれどもこの記事は、実はそういうことを語ってはいません。それが中心ではないのです。

なぜかと言うと、25節で、「イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた」。これが中心だからです。イエス様はここで、弟子たちの信仰を論じておられるのです。神を信じていないではないか。わたしを信じていないではないか。

これは、決して分かりやすい言葉ではありません。私どもも、人生の荒波の中で、イエス様

を信じる者として、もちろん、祈ります。主のみ名を呼ぶのです。

「イエスよ、わたしは滅びそうです。助けてください」

これはイエス様を信じているから祈っているからです。

ただ、各時代の希望には弟子たちの心の移り変わりが表現されています。それによれば、最初、弟子たちは嵐の時に、イエス様が船にいることを忘れていました。そして、イエス様のことを思い出し、呼びかけるのです。答えられないイエス様の姿を見て、見捨てられたのではないかと思い、最後に、眠っているイエス様を見て、なぜイエス様は眠っているのか、と思ったというのです。

実はイエス様は、弟子たちのその心の動きを見て、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、そう言われているのです。

 

それなら弟子たちは、結局どうすれば叱られずにすんだのでしょうか。いや、叱られるかどうかという問題ではないでしょう。弟子たちに、もし信仰があったとしたら、具体的にどうしただろうか。

皆さんはどうお考えになるでしょうか。おもしろいことに、実にいろんな意見があるのです。

 

たとえば、私が好きな、そして一番大胆な答えは、「嵐の中一緒に眠ってしまえばよかったのだ」。主イエスが完全な平安の中にいたように、イエス様に倣って、弟子たちも神を信じ切って、一緒に眠ることができたはずだ。……どうでしょうか。できますか。

 

またある人は言います。主イエスが眠っておられる。その姿に励まされて、そのまま安心して舟をこぎ続ければよかったのだ。なるほどと思います。どんな状況でも、舟をこぎ続けるのです。けれどもその心のうちは平安に満たされているはずだ。主イエスが共にいてくださるから。なるほど。

 

しかしまた、ある人は、イエス様を起こすまではよかったのだと言います。むしろ、起こさないでどうする。われわれもまた、苦難の中で主のみ名を呼び続けるではないか。けれども、「先生、先生、おぼれそうです」。この言い方はだめだ。もっと信仰者らしい祈り方があったろうに。別の祈りをすればよかった。なるほど、なるほど。

いろんな人がいろんなことを言うのです。だから、私も迷います。

 

けれども、福音書が語ろうとしていることは、結局、ひとつのことです。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。「どこにあるのか」ということを簡単に言い換えると、「あなたがたは、誰を信じているのか。何を見ているか。」ということです。

だから、弟子たちも最後に言うのです。「いったい、この方はどなたなのだろう」。

聖書ははっきり言っています。実は弟子たちは、同じ舟に乗っているのが誰であるか見失っていたのです。

イエス様は、そのことを分からせようとしてくださったのです。

「あなたがたは、誰を信じているのか、何を見ているのか。」

わたしのことを、よく見てほしい。よく分かってほしい。

 

私はここで、弟子たちの行動の正解を言うつもりはありません。なぜか。

嵐の中では、信仰者であっても取るべき態度はさまざまだからです。

思い煩いから解き放たれて、いったんすべてを手放し、すべてを神にゆだねきるようにして、主イエスと一緒に眠るという道が示されることもあるでしょう。

主イエスが共にいてくださる、そのことに励まされて、心新たに愛の忍耐に導かれ、舟をこぎ続ける人もいるでしょう。

主の名を呼び続ける人、「主よ、助けてください」という人もいるはずです。

どれも間違いではないはずです。イエス様から目を離さずにいることができれば。

 

一番の問題は、私どもの心が、イエス様から目を離してしまうこと、イエス様への不信仰のこころが忍び込むことなのです。

神さまなんて何もしてくれないのではないか。眠って何もしてくれないではないか。そう思うことです。その時、本当にイエス様の姿を見失っているからです。

なぜそう思ってしまうのか。

私たちは自分の感情で、私たちと共におられる、この方がどなたなのか、私どもはすぐに忘れるからです。

 

だからこそ、イエス様は絶えず、ご自身が何者であるかを私どもに示してくださるのです。イエス様がこのすぐ後でなさった奇跡は、奇跡ではなく、それを示しているだけなのです。

私どもは、絶えず、繰り返し、問い続けなくてはいけません。

「いったい、この方はどなたなのだろう」。

 

イエス様はこの場面では、弟子たちにご自分が何者であるかを示すために、「風と荒波とをお叱りになった」。そう書いてあります。ここにイエス様の姿が見えてきます。

イエス様は、嵐を静めてくださいと、神に「祈られた」のではありません。風と波を「お叱りになった」のです。

この違いは大きいのです。この方が、神そのものであるか、そうでないかを示すのです。

弟子たちは自分たちが恐れていた嵐が、それこそまるで叱られた子どものように、おとなしくなってしまう光景を目にします。

ここで、私たちは創世記の天地創造を思い出すのです。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」

ヨブ記第38章にもあります。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」。

このような命令をすることができるのは、ただおひとり、神様だけです。

イエス様は、ここで神そのものとして行動しておられるのです。だからこそ、嵐から助け出された弟子たちは、やれやれ、助かったと安堵の心を得たというのではなく、嵐を恐れた恐れよりもなお深い畏れを知ったのです。

弟子たちは驚いて、改めて思いました。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」。その後に言葉が続いたはずです。このお方は、天地創造の神なのだ。その姿を直接見たからです。

 

弟子たちも、そして私たちも、そのようにして新しいイエス様の姿を見ることで、弟子としての訓練を受けていくのです。イエスとは誰か。この方は、いったい何者なのだろう。そのことを知るための訓練です。弟子たちの訓練は福音書の終わりまで、十字架の後までずっと続くのです。

三育小学校の祈祷週の最初のお話で言いました。イエス様の呼び名は、ある辞書には184もの呼び名があると書いてある、またある神学者は250もの呼び名を持っている。私たちの知らない、まだまだ知らないイエス様の姿があるのです。イエス様に祈る時、主イエス・キリストというオールマイティ、どこにでも使える名で祈っていないでしょうか。もっと具体的な、イエス様の姿で祈ってほしいのです。

弟子たちは、この後「風も波を従わせる力を持つイエス様」という呼び名で祈ることができたはずです。具体的なイエス様を見ることで、私たちはイエス様に近づくことができるのです。

 

もう一つ、この場面から学んで終わろうと思います。

弟子たちは、ここでイエス様が眠っておられることに驚き、恐れました。そしてなぜ眠っておられるのですか。なぜこんな状況で。あり得ない。そう思ったのです。そんな場面、聖書の他の場面にありませんでしたか。

福音書はその後、立場を変えて、まったく逆の場面を私たちに伝えています。

弟子たちが眠り込んでしまい、イエス様だけが祈っておられる場面です。

イエス様が十字架につけられる前の晩、オリーブ山、ゲツセマネでの場面です。

「神よ、できることなら、この苦しみを取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」そう祈られた時です。

福音書は本当に正直に、イエス様の思いを伝えています。

十字架を前に、イエス様は本当に恐れたのです。弟子たちが嵐の中恐れたのと同じです。これから来る苦しみが恐かったから、徹夜の祈りをなさったのです。だから、あの嵐の夜とは逆に、イエス様が弟子たちに、どうかあなたがたもわたしと一緒に起きていて祈ってほしいと願われたのです。けれども弟子たちは皆、眠ってしまいました。

このイエス様の思いは十字架の上でクライマックスを迎えます。

「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

これは信仰の言葉でしょうか。どうでしょうか。

「先生、先生、おぼれそうです」弟子たちの叫びとよく似ているのです。

イエス様は、恐れの中、弟子たちに一緒に祈ってほしいと思われたのです。この弟子たちは眠ってしまいました。十字架の場面では、一緒にいるどころか、逃げ去ってしまったのです。この時は弟子たちだけでなく、父なる神もイエス様にとっては眠っておられるようにしか思えなかったのです。

それほどの深い恐れを、神の子イエスが味わってくださったことを思う時、そのイエス様に、皆さんは「イエス様、あなたの信仰はどこにあるのか」と言うことができるでしょうか。

「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

この時こそ、イエス様が深いところで父なる神に支えられていることを感じないでしょうか。

だから、信仰はどこにあるのかと叱られてしまった弟子たちも単に信仰がなかったと責められていると考えるのではなく、実はどんなに深い主のみ手によって支えられているかを思って下さい。

 

だから、弟子たちの問いはその後で、まったく新しくされました。

「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」。

風がどんなに強くても、それを造られたのは神であるイエス様。波がどんなに激しくても、それを造られたのは神であるイエス様。死の力がどんなに強そうに見えても、その死の力も従うイエス様の姿に気が付いたのです。

福音書は、最後のところで、弟子たちがそのことに気が付く、その事実を鮮やかに描き出しているのです。

 

そしてこの弟子たちから受け継いだ信仰によって建てられた教会は、どんなに苦難に会っても、いつもくり返し、嵐の後の弟子たちの言葉を繰り返すことができるのです。

「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか。死の力も、このお方の前にはひれ伏したではないか」。

これが教会の受け継いだ信仰なのです。教会とは皆さん一人一人です。だから、私どもはどんな嵐にも耐え続けることができるのです。愛の労苦に耐え、信仰の試練にも耐えることができるのです。そのこころを造るために、イエス様は、舟の中で安らかに眠る姿を見せてくださったのです。

皆さんはその力をすでに頂いている、そのことを信じて下さい。そして、どんな困難な経験の中にいても、すべてのものを益としてくださる神様の姿を見上げていただきたいと思います。

皆様の上に、神様からの力の注ぎが豊かにありますようお祈りいたします。