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メッセージ2017年9月23日

エマオの途上 聖書朗読 ルカによる福音書24:30-32

皆さん、おはようございます。
今日は洗足式、聖餐式の礼拝です。いつもは洗足・聖餐の御言葉を取り上げていくのですが、今日は少し違った視点でみ言葉を頂きたいと思います。

今日頂いた御言葉は
ルカによる福音書24章(エマオの途上)のみ言葉です。
イエス様が十字架上で亡くなられて、天に昇られるまで、弟子たちに現れる本当に短い期間の話の一つです。皆さんよく御存じだと思いますので、読みながら進めてみたいと思います。
◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

弟子たちはイエス様の十字架を目撃して、本当に悲しみの中に、絶望の中にいました。信じていたイエス様が、犯罪者として十字架で亡くなられたからです。この二人の弟子たちはおそらく、その悲しみから、自分たちの故郷に帰り、新しい出発をしたい、と思って歩いていたに違いありません。
皆さんにもそんなことがなかったでしょうか。自分の前にある壁が高く、八方ふさがりでどうしようもなく、逃げ出したくなる時。困難・悲しみの中にある時。
そういう相談を受けるときもあります。どうしようもない状況にある人。
そんな時、よく「神様に祈りなさい」というアドバイスをすることがあります。
「神様に礼拝しなさい。」
私もそのようにアドバイスしてきました。一緒に祈りましょう。
でも、よく考えてみると、そんな人は、祈り、礼拝し、神様に相談をしてきたはずなのです。私のところに来ているくらいですから。神様と共に歩んでいると思っていたはずです。でも、結果が・・・。見えてこない。

弟子たちもそうでしょう。まさに、イエス様と共に歩んできた人たちが弟子だったのです。でも、結果が、十字架だった。
そんな人にまた、礼拝しなさい、といって礼拝できるのでしょうか。立ち止まるか、しゃがみ込むか、立ち去るか。この2人の弟子たちもそうでした。エルサレムを後にして歩みをしていたのです。

そんな時に何が起こったか。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

私達が本当に歩めないとき、また神様の元から離れようとするとき、そうするしかないと思う時、神様の元へ歩むことはできません。
そんな時、イエスご自身が近づいてくださるのです。
私達からでなく、神様から近づいて礼拝が始められるのです。

その時に何があったのでしょうか。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
弟子たちは気が付かなかったのです。本当に打ちひしがれている時、これまで見えていたものも見えなくなってしまう経験を、皆さんもしていると思います。

ではどのようにして気が付いたか。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。

イエス様はまず、真理から入っていかれません。まず私達の思いを聞かれるイエス様の姿があります。親しく話しかけておられるのです。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。
じっくり、弟子たちの心を聞いてくださったのです。
二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それから、イエス様の話が続きます。
途中、話をさえぎることなく、いいとか悪いとかの意見も言わず、この2人の弟子たちの話を最後までじっくりと聞いてくださるのです。
20節からの出来事でいろいろ途中話の腰を折ることはできたはずです。でも、じっくり話を聞いてくださった。
カウンセリングの用語で傾聴という言葉がありますが、まさにそれです。
「傾聴」とは、カウンセリングやコーチングにおけるコミュニケーションスキルの一つです。人の話をただ聞くのではなく、注意を払って、より深く、丁寧に耳を傾けること。自分の訊きたいことを訊くのではなく、相手が話したいこと、伝えたいことを、受容的・共感的な態度で真摯に“聴く”行為や技法を指します。
でも、私たちにはこれができない。自分は真理を知っている時には特にそうです。早く救ってあげたいと思うからです。

でもイエス様は聞いて、聞いて、最後になって初めて次のことに移られます。
そして、起きた出来事について始めて聖書のみ言葉から解きあかしをしておられるのです。
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

そうすると、心が燃えてくる、元気になってくるのです。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

よかった、よかった。弟子たちは元気になっていきました。ですか?
あれ、それで解決したのかな。そうでない姿が実は隠されているのです。

教会のプログラムで様々なことを聞いて、心燃やされて帰ってくることはないですか。講習会、セミナー、キャンプミーティング。しかし、帰ってきてその思いが元に戻っていることを経験しないでしょうか。なぜそうなるのか。心では燃えることが出来るのです。知識で理解することもできます。でも、それではまだ不十分なのです。

弟子たちもそうです。イエス様が近づいてくださり、御言葉で燃やされ、頭では理解して元気になったような気がしている。もし、それで十分であればイエス様のして下さったことは、これで終わっているはずです。
でも、それで終わらない。
エチオピアの高官もそうでした。使徒行伝8章にあります。
イザヤ書を読んでいると、霊に導かれたフィリポが送られます。
8:34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
フィリポによって聖書の解きあかしがなされて、イエス様のことについて知り、心燃やされた時、それで満足したでしょうか。満足できなかったのです。だから、
8:36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
私の聖書にはここに「大切」という赤文字が書かれています。新共同訳聖書では後ろに37節があるからです。それも含めて読みましょう。
8:37 (†底本に節が欠落 異本訳)フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。
8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

高官は聖書の解きあかしで心が満足したのですか。答えはノーです。
彼はそれでは満足できなかった。だから言いました。
「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

私たちは心で理解するだけで十分ではないのです。それだけで信仰生活を送れない。なぜでしょうか。この2人の弟子たちを見てみると分かります。出会っているのに分かっていなかったからです。本当の意味で分かるとは、単に理解することではありません。頭で理解することでなく、経験することも必要なのです。
知ったら、それを使って見たくなりませんか。やってみたくなりませんか。神様はそういう風に人間を造られたのでしょう。エチオピアの高官もそうです。知ったら、それを実際に体験したい。
でも、それが大切なのです。体験することが本当の力になるからです。

エマオの途上で2人の弟子たちが経験したこと。クライマックスはイエス様だと気が付くことです。
それはどのようにしてわかったか。近づいてくださったからですか、聖書をよく知っておられたからですか。どれも違いました。イエス様と一緒に過ごした日々の経験が大切となったのです。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

35節に書いてあります。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった
実際に経験したことが最後に残るのです。

これから洗足式、聖餐式を行います。どちらもイエス様の役割をする人がいます。イエス様のみ姿を再現できるように祈りたいと思います。
また、エマオの途上で見せてくださったイエス様の姿を他の人にも体験していただくように祈って下さい。

近づいて、一緒に歩き、聞き、そして聖書の御言葉で励まし、それだけでなく、それが残るように一緒に体験していっていただきたいと思います。

それでは、洗足式に移りたいと思います。