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メッセージ2017年12月2日

3分クッキング 聖書朗読 箴言20:24

最初に聖句を聞きたいと思います。
箴言20:24
20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

皆さん、おはようございます。
今年も早いうちに、知らないうちに12月になりました。
教会ではもうクリスマスの行事を行う時期が来ました。今日の午後はキャロリング、明日は小学校のクリスマス。
12月24,25日から考えれば、ちょっと早いクリスマスです。年々クリスマスが早くなっているのではないか、と思ってしまします。教会の暦、教会暦を取っている日曜教会では明日から待降節に入ります。キリストを待ち望む時です。いつか時間がある時に説明してみたいと思います。

さて、小学生の皆さんも12月。皆さんは明日のクリスマスに頭がいっぱいだと思いますが、あと少しすると冬休みです。2学期も残り少しです。この2学期、どうでしたか。いろいろなことを学びましたか。この2学期の間、何を学びましたか。
そして、互いに学びあうことはできたでしょうか。
先生も中学校で先生をしていましたので、この時期通知表をつけないといけないな、どうしよう。そんなことを考えている時期でした。
勉強という面では、テストで何を学んだかを確認することができるので、テストを作ったり。皆さんはあまり好きでないと思います。先生もそうでした。テストはできなくても、大切なのは、できなかったことを確認して、それをきちんと身につけることです。

実は中学生の皆さんに学期の始めにある本にあった次のような言葉を紹介したことがあります。
「さあ、諸君、勉強を始めよう、勉強を。およそ勉強なんていうものは、何だってつらくて厳しい修行である。しかし、それを乗り越えた時、自分でも驚くほどの充実感と、学問そのものへの興味がわき起こってくる。昔から、楽して得られるものなんて、つまらないものに決まっている。なまけを誘う甘い言葉は、諸君に一人前になってもらいたくない、という嫉妬である。思い切り苦労して、一所懸命努力して、すばらしいものを身につけようではないか。」

そして、今日皆さんに聞いたように、この学期どうでしたか、と聞いてみました。
みんな、どうだろうという顔をしてました。なんでなのかな。そんな時に、あることを思い出しました。
今日最初にお話したいのは、ある中学生のことです。
掃除の時なのですが、チャペル清掃での出来事です。いつものように時間になって、お祈りをして、清掃が始まって、ある生徒の動きが気になっていて、ちょっと見ていたのです。チャペルの外回りの担当だったその生徒は、箒をもってうろうろし始め、何をするのかな、と見ていると、ちょっと掃いて、また歩き、またちょっと掃いて、また歩き。周りをまわるだけ。同じ所を2周くらいしていたでしょうか。
こう言うとこの生徒は掃除ができない子なのかな、と思うでしょう。でも違うのです。掃除ができない生徒ではないのです。その前の日は池の掃除をきちんとして、本当にきれいにしてくれていました。すごいね、きれいになったねと言った次の日ですから。
でも今日は、周囲を回るだけ。どうしてなのかな、と思ったので、終わった後でちょっと聞いて見ました。今日の掃除、何をした。そうしたら、うーん。
今日はどこやったの。もちろん、何もしていないから答えようがないのかもしれません。
何か理由があるのかな。うーん。特になさそうです。
できないのなら、しょうがない。でもできるのに、しないのはなんでなんだろう。

もし、この生徒が、「やらない」ということに理由を見つけようとすれば、いくらでも考えられます。
掃除が嫌いだから。これはわかります。やりたくないから。だからやらない。
面倒くさいから。これもわかります。これもやりたくないから。だからやらない。
自分の気持ちに正直といえば、かっこいいですが、学校ではゆるされません。学びの一つとして、掃除があるわけですから。これから社会で生きていく以上、掃除はできないと困ることになります。
たかが掃除、されど掃除です。ある先生は、掃除ができない人は信用できない、私は信用しない、とおっしゃっていました。伊藤先生も古い人間ですから、同じような評価をするかもしれません。大人の世界では、確かに、こういう評価をすることになります。
でもここは学校。失敗してもいいのですが、機会が与えられていながら、活かしていないのは、本当に残念です。
でも今回はちょっと違うかもしれない。他にも理由が考えられるでしょう。
中には、やらなくてはいけないことがわかっていても意識的にやらない、という人もいるでしょう。聖書の中のサタンに似ています。
サタンは神様の事をよくわかっていながら、わざと反抗する。分かっていてやらない。
掃除の意味も分かっているけど、反抗の意味を込めてやらない。
私達にもそんな時期がありました。思春期なので、親に反抗してやらない、ということもあってもしょうがないと思います。でも、私に反抗しているようでもないようです。
今回はそのどれでもない気がしました。
何でしょうか。もっと簡単なことなのかもしれない。
実は中学生、やり方が分からないのかもしれない、と思いました。掃除のやり方、ではなく、進め方が分からないのかもしれない。

その前日は、本当にきれいにやってくれた。でも、その時は掃除の範囲がきちんと決まっていました。だからその中をきれいにする。そう考えると、箒をもって回っているのも理解できます。昨日と違うのはただ一つ。今日はここをやって下さい、という指示をしていなかったのです。

皆さんだったらそんな時はどうしますか。先生から、今日はここやってね、そんな指示は毎日出るわけではないと思います。そんな時は、自分で掃除する範囲を決めないといけない。
決められない、そんなこともできないのか。そう思いますが、でも今回は一つの壁がありました。決めよう、と思っていても、自分のやらないといけない範囲は広い。それも一人でできる範囲をこえている。

例えば、ここ亀甲山教会ですが、この時期枯れ葉が毎日毎日落ちてきます。一回で全部するのは不可能です。ずっと掃除をするわけにはいかないからです。短い時間でどうにかしないといけない。いっそやめて枯れ葉の絨毯を目指そう。きれいだね。でもいいのですが、そういうわけにもいきません。やらないと大変なことになります。さあ、皆さんはどうしますか。それでも全部やろうとすると、最初からくじけてしまいます。

あの中学生はそこで迷ったわけです。自分がやろうとする場所を見て、箒をもって回っているのですから、掃除をさぼろうとはしていない。やろうとしてくれているわけです。でも、よく見ると、ここもやらないといけない、あそこもやらないといけない。箒で少し掃いてみよう。でもあそこも。そう考えると、手が付けられなくなっていますのです。途方にくれてしまう。その内に時間が過ぎていってしまった。そんな状況だったのです。

使徒13:1-3(237p)を開いてみましょう。
13:1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
13:3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

初代教会パウロの第一次伝道旅行の出発の場面です。私たちはパウロを偉大な伝道者として見ていますけれども、そもそもパウロ自身伝道者として働きをしようとも思っていなかったはずです。使命をもってクリスチャンを迫害していたサウロ、イエス様に出会い、回心をしましたが、その後の足取りは実ははっきりしていません。でも、バルナバに見いだされ、この異邦の地アンティオキアの教会での奉仕をするようになり、多くの人々を導く働きをするようになりました。
でも神様のご計画により、この場面で、唐突に宣教旅行に出発することになるのです。伝道に行きなさい、そんな指示だけでパウロは出かけていけたでしょうか。私がすることは何ですか、行く場所はどこですか、誰に話せばいいのですか。パウロはあっちへウロウロ。こっちへウロウロしたかもしれません。
でも、ここで注目したいのが、聖霊の言葉です。
使徒13:2
「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
私が前もって決めておいた仕事に当たらせるために。神様の中ではもう、パウロのすることは決まっていました。神様はどのようなご計画をパウロに持っておられたのでしょうか。私たちが知っているパウロの働きは大きな伝道旅行が3回、その中にエルサレム会議の働きがあります。その後、ローマへの旅があり、おそらくその後もっと西の方へ、パウロがしたかったスペインでの伝道もしたのかもしれません。そして殉教となるのです。神様には計画がありました。もう大丈夫。これで伝道へ行ける。そんなこともないのです。最初からそんな壮大な計画を見せられて、パウロは出発できたでしょうか。どんなに強いパウロであったとしても、「私にはそんなことはできません」としり込みをしてしまったでしょう。だから、決して神様は壮大な計画をパウロにそのまま見せはしなかったのです。

このことを考えていると、小学生の時のことを思い出しました。
学校のビックイベントの一つに、マラソン大会があります。大人の皆さんも走った経験があるでしょう。マラソンが好きな人と、嫌いな人がいると思います。私は小学生の時、4年生くらいまで、本当に運動が苦手でしたから、マラソン大会も大嫌いでした。私の小学校は1学年4クラス。1クラス約40-45人でしたから半分として男の子80人ぐらい。その中で私は60番から70番くらいの順位でした。途中であきらめることはなかったですが、本当に嫌でした。ちょうど今の季節ぐらいからマラソン大会の練習が始まって本当に憂鬱な季節でした。そんな時、ある先生が長距離の走り方、考え方を教えてくれました。全部走ろうとすると苦しいと思うよ。そうじゃなく、目に見えるあの電信柱まで走ってみよう。それを走ることができたら、次の目標をたてればいいよ。やめることもできる。でも走れそうなら、次に見える電信柱を目標にしてみるんだ。長距離はその繰り返し。そうしたら、完走できる。
単純なことですが、私はそれを実行してみました。苦しくないかというと、苦しかったです。でも、前ほどマラソンが苦にならなくなりました。それから、長い距離を走る時、私はいつもこのようにしています。
考え方を変えるだけで、変わってくるのか。小学生の私はすごいことを聞いた。そういう風に感じました。大きいことをする時は必ず分割して、小さくして、一つ一つをやっていく。そうするとくじけずに完走できる。
他の人にとってはおそらく当たり前のことだったのかもしれません。でも、私はそれに気が付かなかった。いつも、ゴールが遠いことを考えて、あんなに走らなくてはいけないのか、いやだな、いやだな。で走っていたのです。マラソンを10か0で考えていて、10の前にしり込みをしていた。その結果は0です。でもそれを乗り越えることができる。
大きいことをするときはみんな一緒です。
聖書通読も同じです。1年で聖書を読んでみよう。ぜひそんな目標をたててみてください。でもこんな厚い本を読む。どう思いますか。絶対無理だ。いきなり聖書66巻を通読しようとするとくじけてしまいます。こんなには読めない。意志の弱い私には無理です。だからしない。ゼロです。
でも細かく分けていくと感じ方が変わります。
1年で読もうとすると、一日3章で読めるといいます。実行している人もいるかもしれません。それでもダメな人は。3年で読めばいい。1日1章。これならできそうです。よしやってみよう。とにかく、1でも2でもやってみる。できた。じゃあ、もうちょっとやってみるか。途中できなくても、もう1、2でも進んでいるのです。0ではない。
最初からしり込みしていると0。ちょっと進んでみるのとどっちがいいでしょうか。最初は少しずつ進むことで良し、としましょう。やらないよりはましです。最初からスーパーマンにはなれないのですから。
この最初の、何かをやり始めるという壁を乗り越えることができる人と、乗り越えることができない人では大きな差ができるのです。この大きな差は、このちょっとした考え方から生まれます。
ちょっとした考え方の違いで、コツで、苦しいことも乗り越えることができる。不思議なことです。

先ほどパウロの例を出しました。旧約でも同じことがありました。信仰の父アブラハムです。創世記12:1―4
神様はゴールを言っておられます。大いなる国民にするというゴールです。でも、実際行かなくてはいけない目的地は言っておられません。「私が示す地」これしか言っておられないのです。カナンまでと言うと、75歳のアブラハムは「自分は年寄りなので」「そんな長い距離を一族で行くのは無理です」とか言って出発しなかったのではないでしょうか。だから、おそらく、今日はここまで、明日はここまで、そんなことだと思います。日々の歩みの積み重ねが、カナンまでアブラハムを導いたのです。神様が本当にここまで、と言われたのは、13:14になって初めてです。

さて、今日の説教題は何でしょうか。
「3分クッキング」です。こう聞くと、すぐにテレビの番組を思い出す人がいると思います。3分で料理が作れる。皆さんは見たことはありまか。
いつも見ていると、すごいと思っていました。小さい頃結構好きで、
「ぱらっぱぱぱ、ぱらっぱぱぱぱ、ぱらっぱぱぱぱぱぱっぱっぱ」の番組と、
「ちゃんちゃら ちゃらちゃらちゃんちゃんちゃん」の番組をよく見ていました。
なんて早く、きれいに作れるのだろう。自分もあんなにできればいいのに。そう思っていました。3分ですよ。
で、自分で自炊をするようになって、あんな姿を思い浮かべながら取り掛かるんですが、3分で料理ができたことなんてありません。なぜでしょうか。

番組名で「3分クッキング」と謳っている番組ですが、現在の実際の放送時間は放送枠単位で10分です。放送開始当時は5分間枠番組で実際の内容部分が3分間だったことが由来となっていて、私はずっと3分でつくると思い込んでいましたが、本当は3分間で作れる料理という意味ではなかったようです。
でも、すごいです。55年間続いている番組だそうです。1962年12月3日ちょうど明日で55歳になる番組です。
これも1日1日の積み重ねです。
でも、番組そのもの、3分、7分でもいいですがこんな短い時間枠で料理を作る放送を組むことがどうしてできたのでしょうか。
実は放送時間に収めるために、長い準備時間があるからです。
そのため、茹でたり、焼いたりと、あらかじめ下ごしらえされている食材が出てくることも多いです。番組に登場した料理で実際に3分、7分で作れる物はありません。調理に7分だったとしても、その裏で材料を下ごしらえしたり、調味料を量ったり。その準備をして、「ぱらっぱぱぱ、ぱらっぱぱぱぱ、ぱらっぱぱぱぱぱぱっぱっぱ」なんです。
実は小さなことの積み重ねがおいしいごちそうになるのです。

料理上手は仕事もできる、と言われるそうですが、料理は仕事の進め方と似ているからだそうです。おそらく皆さんが経験することになる社会での仕事。いきなり大きな仕事をするのでなく、小さなことの積み重ねが素晴らしい仕事を作っていることに気が付くと思います。何十億円の仕事は、素晴らしいプレゼンテーションでできるのでなく、電話一本から、下準備の積み重ねからできているからだそうです。

勉強もそうです。いきなり難しい問題が解けるのでなく、いきなり英語がペラペラでなく、小さなことの積み重ね、単語ひとつひとつ、がそれを形造っているのです。

だから、2学期を振り返った時に、どうだったか。単にテストの点がどうだった、これも大切ですが、もう一つ日々の授業、家での予習・復習をしたか、そう日々の一歩一歩の歩みはどうだったかを考えてほしいと思います。
逆に、テストの点がどうであれ、一歩一歩進んで行ける人は、必ず大きなゴールにつくことができます。その歩みを大切にしていってください。まさに「ウサギと亀」です。

箴言20:24(1017p)
箴 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

ゴールだけでなく、この一歩一歩を神様にゆだねていきたいと思います。

さて、これからクリスマスのシーズンです。準備をして神様を証していきたいと思います。これも日々の神様との交わりが大きな力になります。そのことで、神様は必ず祝福した時間にしてくださると思います。終わって振り返った時に、日々の積み重ねがその喜びを大きくしてくれることに気が付くと思います。
これからの歩みにそんな喜びがいっぱい経験できるようにお祈りしたいと思います。