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メッセージ2017年10月7日

プライオリティー  聖書朗読 マタイ6:33

主の御名を讃美いたします。
皆さん、おはようございます。
今週の日曜日から、小学生の宿泊学習に参加させていただきました。
県の西部、足柄の宿泊施設を中心に、金時山登山をしてきました。
行く前は正直、この登山が心配でした。本当について行けるのだろうか。小学生の足を引っ張ったらどうしよう。そんな思いでした。しかし、ゆっくりしたペース配分で、なんとかついて行くことができました。
宿泊学習でいろいろと感動したこともありました。特に6年生の礼拝のお話には本当にびっくりでした。素晴らしい証を聞かせて頂きました。子供たちの許可をとっていないのでここでお話はしませんが、本当に感謝です。

今回、小学生の皆さんと一緒にいて子供たちがよく注意されることで、2つのことが気になりました。一つは時間のことです。もう一つは言葉のことです。

まず時間のことについて。
小学生の皆さんは班活動で、それぞれ班の目標を掲げていました。いくつか共通したものがありました。時間についてのものです。先生の頃には「5分前行動」、いくつかの班も5分前行動を目標にしていました。
そこで、皆さんは時間の締め切りのある中で過ごすのと、締め切りのない中で過ごすのとどちらが好きでしょうか。締め切りがなければ十分な準備ができる、と思う一方、締め切りがないと人はなかなか動こうとはしないことはないですか。締め切りがあっても、十分な準備をもって締め切りをむかえず、逆に慌ててしまって実力を発揮できないこともあります。
実は今回の宿泊学習、私の準備は出発前の短い時間に荷物をまとめていきました。直前まで準備していなかったのです。行くことが分かっていてもなかなか準備できない。そんなことはありませんか。
そんな時何を考えていたか。今回宿泊学習は私にとっては初めての経験です。ワクワクと不安、どちらが大きいと思いますか。
ワクワクが大きい人は本当に素晴らしいと思います。牧師がこんなことをいうのはおかしいですが、私の場合、不安にとらわれることのほうが多いです。何がおこるか、神様が何を用意して下さっているかワクワクして・・・ということは正直あまりありません。
むしろ、不安を押し殺して、「えいやっ」という感じで飛び込んでいく方が多いのです。
私は自分のことを、「石橋を叩いて壊してしまうタイプ」といっていますがが、まさにそうです。慎重だというより、不安を抱えているから怖くて飛び込めない。行きたくない、という思いが準備を遅らせていたのだと思います。それを叩きながら、何とか進んでいく。そんなタイプです。

ただ、不安そのものは私たちを神様に向かわせる働きをしていますが、それを持ち続けることを神様は良しとしておられません。

そこでルカによる福音書の言葉をご紹介したいと思います。
ルカ
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

不安の中、歩みを続けていた2人の弟子たち。その不安を取り除くためにイエス様は近づいてこられ、知っているにもかかわらず二人に心の中の思いを聞き、み言葉で確かめ、そしてそれを確信させるために経験させました。

皆さん自身も、もし不安の中にある時、このみ言葉を思い出していただきたいと思います。
不安の中にいる私たち、神様は、まず皆さんに近づいてくださるはずです。そして、問いかけてくださるのです。
何が不安なのですか。
しっかり、自分自身が自分の心を整理する必要があるからです。そしてみ言葉による働きにそれをゆだねることに目を向けるように言っておられるのです。
神様は、この工程を抜きにして先に進むことはされません。愛なるお方だからです。強制的にやらせるのではなく、選択をするように言っておられるからです。

あなたは今不安なんだよね。何が不安なの。それを整理して私の元に置きなさい。そう言われるのです。

さて、このような時に確認しておきたいのが、私達が何を不安に感じるかという点です。
この時、エマオの途上で弟子たちが感じていたのは何でしょうか。自分たちのことであれば、イエス様に従っていた自分たちがこれからどうなるのか、そもそもイエス様を信じていた自分たち自身に不安を感じていたのかもしれません。あれだけ確信をしていたのに、あれだけ慎重にしたのに、あれだけ喜びがあったのに、奇跡も見ていたのに、あれだけ調べていたのに、・・・。いろいろな思いがあったでしょう。
もしかすると、イエス様のことを信じられなくなっていたかもしれません。え、そんなことがあるの。あったかもしれないのです。
でも、この2人の弟子たちが、イエス様を信じられなくなっていたとしても、絶望にあったとしても捨てなかったものがありました。それが彼らを救うことになります。なんだったでしょう。

聖書です。当時のものであれば旧約聖書です。この聖書は正しいのだ、という思い、聖書に対する信頼、信仰です。もし、これを失っていたとすれば、イエス様がどんなに説明したとしても、弟子たちは目が開かれることはなかったでしょう。最後まで捨てなかったもの。聖書です。

人生には様々なことがあります。
どんなことが起こっても、そこに戻れば立ち直ることが出来るものを持っているか否か。思い悩んでも、そこに変わらずに力を頂けるものがあるかないかが大きな分かれ道になるのです。
亀甲山教会に来て、いろいろなところで確認した聖句があります。

Ⅱテモテ(394p)
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

聖書はこの働きをすることを信じますか。
おそらく、その人の持っているもの、価値観は、その人の不安の中で明らかにされていきます。失ったらいやなことが明らかになるのです。でもどんなに不安に感じることがあったとしても、変わらないもの、自分を支えてくれるものを持っている人は、必ずそこに戻ります。そして、それが力を与えるものであれば、立ち上がらせてくれるのです。
逆に、持っていなければ、力を与えてくれるものでなければ、絶望して立ち止まるしかできなくなります。
聖書に書かれている約束の日に、自分が何を持っていたのか、それが明らかにされます。

もう一つの聖句をご紹介しましょう。今日の聖書朗読の言葉です。
マタイ6:33です。(11p)
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この聖句は皆さんご存知の聖句です。ある年に中学校の宗教部でテーマにした聖句です。
中学生が悩んでいる時に、それに答えるために用いた聖句でした。例えばこの時期、進路、将来の夢を考えたとき本当にそれでいいのか不安になります。でもこの聖句は、それが自分のものなのか、それとも神様からのものなのか考えよう。そんな意味を込めて用いていたような気がします。
素晴らしい聖句です。今一度、この聖句に戻ってみたいと思います。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この聖句の背景を見ていくと、6:25にあるように「思い悩むな」という一つの聖句があります。そして導き出される答えがいくつも書かれていることに気づかされます。
神様に従う者たち、み国の子らの生活態度として、「思い悩むこと」「心配すること」が戒められているのです。「思い悩むこと」「心配すること」は必要ない、ということが7つの面で説明されているのです。新共同訳では25節から一つのまとまりのように書かれていますが、24節から一つのまとまりのように考える方がいいと思います。
「命以外のことで思い悩むな」、簡単にいうと、
1 神と富とに仕えることが出来ないということ これは「だから、言っておく」24節から導き出されます。
2 空の鳥を見なさい、神様の心には人は鳥よりも価値あるから
3 人間は心配しても自分の命を少しでも延ばすことはできないから
4 衣服に対する心配をしても、神の装いのほうが素晴らしい
5 食べる、飲む、着ることへの心配をやめなさい、このような理由は心配は異邦人がするものだから、という消極的な面と、神様が備えてくださるから、という積極的な面の二つが理由になっています
6 今日取り上げようとしているものですが、根本的な解決の道が備えられているから、つまり、神の国と神の義を求めるという答えがあるから
7 最後に断言されているのですが、心配は明日のことは明日が心配するはずだから
というものです。

消極的な面から始まって、だんだんと積極的なものを提示していることが分かります。
最初はそんなことダメだ、ダメだ、ダメだ、ですが、
途中から神様の方が素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい。

一度お話ししたことがあったかもしれません。タバコの講習会の時のことです。
皆さんご存知のように、私たちの教会は様々な特徴があって、健康についても大きな関心を持っています。その象徴的なものが、健康について考えていたり、菜食であったり、禁酒禁煙であったりするわけです。
でもコの害を知るだけでは十分な力を与えることが出来ないということがわかりました。むしろ、そうでない生活をしっかり思い描いてもらう必要がある

いろいろな講演会をしてきて感じたことは、大人も子供も「してはいけない」ではなく「しなかったらこんな生活が待っているんですよ」というアプローチの方がいいということです。害についてはしっかりとした知識を提供していきますが、それは不安を引き起こすだけ。積極的な動機つけになっていないことが多い。
そうではなく、タバコを吸わなかったらこんなことができるんですよ、とういうアプローチです。
実際、禁煙の研究で、たばこの害を述べたグループと、たばこのない生活について重点をおいたグループの追跡調査では、明らかにタバコのない生活について述べたグループのほうが喫煙の割合が低いというものも。

聖書研究では何度も言っていますが、人は見たものに惹かれていくのです。
タバコの害を見せて、そんなものはダメだと思っても、見ているのです。見ていると、どうしてもそれにひかれていってしまうのです。
そして、だめだ、だけでいけないことがもう一つ。
何々しない、は大きな力は発揮できないということです。しないは、消極的な力しか生まないのです。

ベンジャミン・フランクリンをご存知でしょうか。今から300年くらい前のアメリカの政治家です。避雷針の実験をしたことで有名ですが、100ドル札の肖像になっている人です。

このフランクリンが自分の人生で何が最も大切か、と考えて12の徳目、価値観を掲げています。
『自伝』によると、1728年ごろに彼は「道徳的完全に到達する大胆で難儀な計画」を思いついた。この理想を実行するため、自らの信念を十三の徳目にまとめた。彼は毎週、一週間を徳目の一つに捧げて、年に4回この過程を繰り返したといわれています。
最初は12項目だったようです。
節制 暴飲暴食を慎む。飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。
正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
純潔 自尊心や人の信頼を傷つけるような、ふしだらな行いをしない。性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

この逸話で面白いのは、これをクエーカーの友人に見せて意見を求めたところ、その友人は12の項目をみて、あなたには抜けているものがある、と言われたそうです。その友人はフランクリンに「謙遜」が抜けている、と助言したようです。フランクリンは自分が高慢な人間だと思われていることを教えてくれた、と自伝で書いています。そこで最後に13項目目を入れたそうです。
謙譲(謙遜) イエスおよびソクラテスに見習うべし。Imitated Jesus and Socrates.
という項目を入れたそうです。

これまでの内容はすべて、何何をしない、というものでした。確かに積極的な言葉はありません。それに倣えば最後の謙遜は、高慢にならない、のはずです。
でもイエスおよびソクラテスを見習うべし。という積極的な言葉に言い換えて表現しています。

~をしない、で自分の行動を規制するのでなく、積極的に~を行うということで、同じことを行っていく。
皆さんの思いを振り返っていただきたいと思います。安息日はどんな日ですか、と問いかけられたらどう答えるでしょうか。~しない日になっていませんか。
安息日は~できない日ではなく、安息日は~ができる日なんだ。

小学生が山登りの時に先生方から、つらいとか、苦しいとか、もうだめとか言った言葉を語るのではなく、積極的な言葉、元気になる言葉を言うようにという指導を受けていました。全く一緒です。
消極的な過ごし方を証するのでなく、積極的に何かをする姿を見せていきたいと思います。
思い悩むな。考えこまない、ではなく、神の国と神の義を求めていくです。

さあ秋になりました。~の秋です。私たちは積極的に何かをしながら歩んでいきましょう。~しない秋とならないように。
プライオリティー、優先順位を~しない、消極的なものから、~をする、積極的な考え方への転換をしながら、イエス様のおいでになる日を待ち望みたいと思います。