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メッセージ2017年10月21日

一意専心 聖書朗読 ローマ1:16

皆さん おはようございます。
教会を会場にして音楽のプログラム、コンサートを開くことがあります。クリスマスが近くなるとそのような機会が増えてきます。
演奏だけでなく、そこにその人の信仰も出てきて、素晴らしい時間を過ごすことができます。
前の教会で、伝道講演会の一環としてプログラムを持つことがありました。御言葉と説教、そして音楽による讃美。素晴らしいプログラムでした。教会員の人と一緒になって、イエス様の地上での生涯を、大争闘の視点から伝えようというものでした。私も御言葉の取次をさせて頂いたのですが、音楽、賛美もまさにプロ。やはりその道の人は違う、という思いを持ちました。

さて、プロという言葉の意味を皆さんは御存じでしょうか。この中にプロの方はいらっしゃいますか。そして皆さんはプロでしょうか。
小学生向けの国語辞典にはこのように書いてありました。
プロ(名詞)①英語のプロフェッショナルの略)職業にすること。本職。専門。例:プロ野球 対義語 アマ
このように言われています。私たちの理解はこのようなものだと思います。
このプロフェッショナルという言葉は、もともとプロフェッションという言葉から来ています。
そしてこのプロフェッションと言う言葉ですが、もともとヨーロッパでは、宗教家・医師・法律家の3つを指していて、「人のために尽くすよう神様に誓うことが求められる専門職」という意味の言葉でした。

私は大学で3回この事を学びました。最初は大学で法律を学んでいる時です。2回目は神学科で牧師になる勉強をしている時です。そして3回目は大学院で法律家になるための勉強をしている時です。どの先生もおっしゃっていました。
私たちが扱うことは、神様に誓って行わなくてはいけないことなのですよ。
すごいことだ。そう思って学びをしました。

プロフェッショナルの語源は、PROFESS(=神の前で告白する・誓う)という言葉です。
これら3つの職業はそれぞれ、
宗教家は「神学、神様のことを中心にして、心の悩み、精神的病について」、
医師は「医学を中心にして生命・健康、身体の悩みについて」、
法律家は「法学を中心にして人間関係の悩み、社会的な関係」
を担当して、これらのことで、人々や社会を守るよう誓うことが求められました。そして誓って仕事をしたのでプロと呼ばれるようになったのです。
だから本当は、プロとは、お金をもらって仕事をするということを意味するのではなく、神様に誓って人の悩みに奉仕し、働く人のことなのです。

皆さんはプロでしょうか。プロではないでしょうか。
キリスト者、クリスチャンは、この意味でのプロでいて欲しいと思います。なぜか。バプテスマを受ける時に、私たちは神様の前で誓っているからです。私たちは自分自身の救いだけでなく、自分自身を再臨に備えさせるだけでなく、神様の愛の救いに証をたて、自分自身の能力を用いることで、他の人々を備えさせること、福音のために働くことを誓っているからです。
実は、この誓いによって私は導かれました。
私自身は、救われた福音を渡そうとした家内の働きによって導かれたからです。家内もそうでした。福音のバトンを受け取った人が、伝えようとして企画した講演会で、家内に手渡してくれたことで教会に来るようになったし、救いに導かれたのです。これはずっと遡ります。
このバトンの受け渡しでキリスト教2000年の間、途切れることなく渡し続けたことで私まで救われたのです。

聖書の中には2つのバトンが示されています。一つは罪、もう一つは福音です。
罪のバトンは生まれた時に必ず渡されるものです。誰も拒否することができません。
でも福音のバトンは罪のバトンとは違って、受け取ってもらわなくてはいけないのです。受け取らないこともあります。
そして、受け取った人はそれをどうするか。
決まっていません。
その人の自由になるもので、そのバトンを持って走るのか、それともバトンを投げ出して走るのか…。それは皆さん次第です。すっかり忘れてしまうのか、それとも生活の中で生かしていくのか、成長させていくのか、受け取ったバトンを他の人に渡していくのか・・・。
その中で、受け取ったバトンを次の人に手渡していく、それを神様の前に誓った人はプロなのです。

そこで、プロとして、私たちがどのように生きるのか、ということについてお話をしてみたいと思います。

さて、聖書の中には多くの人が出てきます。その中に、神様に変えられ、「ただひとつのことに専念した人」「ひとつの目的をもって生きた人」が紹介されています。
今日はその一人パウロを紹介しましょう。使徒と呼ばれたパウロです。
聖書の最後の地図を見ると分かるように3度の伝道旅行をして、その地域や教会に多くの「手紙」出しました。それが聖書で~の手紙として残っています。キリスト教を広める基礎を築いた人です。

今日は、ローマの信徒への手紙1章を中心にお話をしていきます。1章1節から見ていきましょう。パウロはいくつもの教会に手紙を出しています。しかし、ローマ教会は、実はパウロが作った教会ではありませんでした。その教会への自己紹介の部分です。
ロマ書1:1(273p)で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と言っています。
私は「神の福音のために選び出され」たのだ、と言っています。私は福音のために、つまり福音を伝えるために生まれてきたのだ」といっているのです。

~のために生まれてきた、このように思って生きて来た人を紹介しましょう。
皆さんは、ヴェルナー・フォン・ブラウンという人をご存知ですか。ドイツ、1912年生まれ、1977年になくなっています。アポロ計画、月に人を送るということに大きな貢献をした人です。知っていますか。
ブラウンは中学時代にオーベルトという人が書いた「惑星空間へのロケット」にひどく感銘し、その後ドイツの「宇宙旅行協会」に設立当時から参加していたのだそうです。宇宙旅行協会、どんなことを話し合っていたのでしょうか。宇宙に行ってみたい、月に、火星に行ってみたい。「絶対自分が行くのだ」子ども心にそれを決意した人です。
そこでオーベルトの元で熱心にロケットの研究に没頭しました。
その傍ら行っていたアルバイトのタクシー運転手の仕事中に、ドイツ陸軍のロケット技師を乗せたのをきっかけに、軍の予算を利用してロケットを開発する機会を得ました。その後5000人以上の技術者の指揮者に抜擢され、ついに世界最大の弾道ミサイルA-4を完成させました。
これはヒトラーの命令で「V-2」と名前を変更され、第二次世界大戦中、イギリスのロンドンへの空襲に使用されたのだそうです。いっぱい人と財産が失われました。だから評価が分かれるのです。
戦争が終わり、ウェルナーは技術者を従え、多くの資料とともにアメリカに行きました。
そしてこの時ウェルナーに従わなかった技術者たちはソビエト、今のロシアに行き、後の二大ロケット大国が誕生することになります。
この後ウェルナーはアメリカで様々なロケット「レッドストーン」「ジュピター」「ジュノーロケット」を完成させました。
そしてアポロ計画の要「サターンロケット」を開発し、成功に導いていったのです。とうとう子供の頃に描いた夢であった、宇宙に人を送ることをかなえたのです。
このようにロケット開発に没頭した人です。「ただひとつのことに専念」した人、戦争に協力したという意味で手段を選ばず、という意味で評価が分かれる人なのですが、よい意味であれ、悪い意味であれ、ただひとつのことに専念する、ということが大きなことを成し遂げるためには必要だったのです。どんなことをしても自分が月、宇宙に人を送るのだ!という決意を実行した人です。その決意をしたのが、子供の時だったのです。
このような夢を持っていますか。それを思い続けましたか。

さて、聖書の中に、この「ただひとつのことに専念した人」。パウロは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と言いました。
私は「神の福音のために選び出された」、私は福音のために、つまり福音を伝えるために生まれてきたのだ」といっているのです。
パウロは、使徒言行録20:24(254p)で言っています。
「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
パウロは自らを福音のために命をささげたのだ!と言っているのです。
かっこいいように見えますが、もしかすると、他の人からみたらおかしな人、という風にみられていたのではないか、という記述もあります。
Ⅰコリント5:13(330p)
「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。」

この人正気かよ!!この人おかしいよ!と言われるほど福音に命を懸けていた。まわりから、パウロは福音宣教に狂っている、正気を失っているといわれている、といっているのです。
どうですか、皆さんはそんな熱中できるものがありますか。
そんなパウロが本当に福音宣教に命をかけていた、と思われる記述がローマ1:8にあります。
ロマ
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

感謝します。何に感謝しているか、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているから」
私たちのお祈りでの感謝はどのようなものでしょうか。健康が与えられえて、食事ができること、何かを与えられて、…。パウロはそうじゃなく、福音が、あなた方の信仰が述べ伝えられていることに感謝しています。本当に福音が伝えられていることに…。
おかしいんじゃないの!いやいや、それほどまで福音に、それを伝えることに専念していた、自分の人生の目的にしていたことが分かるのです。
そのパウロがいたからこそ、今、福音が私たちのもとに届いている。実はこういう大きな働きがあるところには、このような生き方があるわけです。感謝したいと思うわけです。

パウロはなぜ、こんなにもひとつのことに集中できたのでしょうか。パウロのように全てを犠牲にしてまでも福音のために献身できるようになる力はどこから出てくるのでしょうか。「好きだから」それは最初の原動力にはなるかもしれませんが、自分の思いは長続きしません。自分の思い、興味、関心はどんどん変わっていくからです。
パウロの場合、それは「召命感」だといっています。神様が自分を福音宣教のために選び出してくださった、という確信なのです。自分はこのために生きているのだ、このために生まれてきたのだという確信なのです。
先ほど読んだロマ書1:1で自己紹介、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と言いました。自分は、福音宣教のために、神様の言葉を伝えるために存在するのだ!!だからこそ自分はこのためなら死をもいとわない。
パウロはⅠコリントの中で(9:16)「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
ともいっています。逆の逆説的な表現ですよね。これをやっているから幸せ、ではない。もしそれができないなら自分は不幸だ!!福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸。
そんなものを持っていることについて、みなさんはどう思いますか。
みなさんはそういうものを持っていますか。
いやいや、皆さんはなぜこの世に存在しているのでしょうか。意味もなく生まれたのですか。なにかの間違いで生まれてしまったのでしょうか。
決してそうではないはずです。神様のなさることに偶然はありません。意味のないこともありません。
意味もない人のために、イエス様は血を、あの十字架上の血を流されたのでしょうか。その罪を取り除くことをされたのでしょうか。
違いますよね。
まず、皆さんは愛されるために生まれてきたはずです。まず最初に神様に愛されるために生まれてきたのです。アダムとエバが作られたのも同じ理由でした。
それだけでしょうか。もうひとつ大切な目的があるのです。皆さんは、神様を愛するために生まれてきたのです。アダムとエバが作られたのも同じ理由でした。

先ほどのパウロはⅠコリントの中で(9:16)「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
そうです。もともとそのために生まれてきたのであればそれをすることが誇りになるはずもありません。むしろ、作られた目的にしたがっていないなら、不幸な時間をすごすことになるのです。

目的を失っていたり、それをしないことが不幸なのです。
人間は様々な不幸な歴史を持っています。
そのうちのひとつ、第二次世界大戦中のユダヤ人に対するものとして、アウシュビッツがあります。ユダヤ人捕虜収容所。このアウシュビッツの労働は4つの目的をもっていました。例えば、収容者されている人の精神的・肉体的消耗を目的とした労働があったそうです。石切り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」がこれに該当しました。肉体的には一番きつかったはずです。
しかし最もきつかったのは、「午前中は穴を掘り、午後その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業を命じられることだそうです。この作業をした人の多くは短期間のうちに死亡したと言われるのです。石切り場での作業よりも道路の舗装工事の作業よりも、穴を掘り埋める作業のほうがきついのです。
何故でしょうか。なにも意味のないことを繰り返していると、人は生きる意味を失い、力を失っていくからです。
様々な理由で自殺する人が以前、日本中に年間3万人いました。3.11のあの地震津波でなくなった人よりも多くの人が毎年亡くなっているのです。自殺とは自分に生きる目的が見出せない人が行うのです。それに気づくことができなかった人、それを失ってしまった人。あなたは目的があって生まれてきた。それも愛されること、そして愛すること。これが与えられているのだ、ということを知らない人がたくさんいるのです。

パウロの福音宣教の使命は、このような人にこれを知らせること、だから、自分が伝えることなくして、他の人であっても福音が伝わることを喜ぶことができたのです。
イエス様の大宣教命令を思い出してください。
マタイ28:18-20(60p)
「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。」
弟子にしなさい。弟子にするとは、あなたが、愛されること、愛すること、あなたの人生の意味・目的をしっかりその人のものとするように導きなさい、という意味です。
パウロはそれを「召しだされたすべての者に与えられた使命」としているのです。
伝えたいという思い。それを持つことは大切なことです。
でもそれを伝えるにためにはもうひとつ大切なことがあります。それは皆さんが福音を体験することです。
今日の聖書朗読はすごい言葉です。
ロマ1:16「私は福音を恥としない」
恥と思わない、恥ずかしいものだと思わない。
何故パウロはそう言い切れたのか。体験しているからです。自分自身が体験しているからです。
証で、他人の信仰を語ることほど情けないことはありません。自分の体験を話すことが最も力を持つからです。どんな小さなことであっても、自分の体験ほど力を持つものはありません。どんなに素晴らしいことであっても、その人が経験したことよりも伝わることはありません。
聖書はそのほとんどが、自分達が経験したこと、体験談です。体験は力強く伝えられる。
だからパウロは自分の体験をもとに福音を伝えようとしました。

さて、今日の説教の題は一意専心です。
一意専心。意味は、他に心を向けず、ひたすらひとつのことに心を集中すること。わき見をせずその事のみに心を用いること。
古いことで申し訳ありません。横綱若乃花、お兄ちゃんが大関になる時に伝達式で言ったことで有名になりました。
その時の口上は「今後も一意専心の気持ちを忘れず相撲道に精進致します」。
この一意専心の思いを持つことは大切なことです。
私たちだったらどうでしょうか。この思いを神様に祈りたいと思います。
「今後も一意専心の気持ちを忘れずキリスト道に精進いたします」

私たちはこの思いをもってイエス様の足元に行ったはずです。パウロのように私たちもプロの思いで、一意専心の思いでいきたいと思います。
「今後も一意専心の気持ちを忘れずキリスト道、伝道に精進いたします」
この言葉を心に持ち続けていきましょう。